茅ケ崎←→南相馬 市被災地の医療を支えて9年
中尾誠利さんに聞く

らら・カフェ 2020春号(第50号)/ 2020年3月

小高の復興を見るまでは通い続けたい…
医師としての志は、感謝を忘れないこと
我々は、出来ることで復興のパーツになる

 東日本大震災後の津波・原発事故により、一時は住民がいなくなった南相馬市小高区――。
 9年前、医療支援ボランティアに手を挙げた中尾誠利さん(当時41歳)は、混乱を極めた南相馬市の病院で過酷な現場を支えてきた力強い医師の一人。
 現在も、自宅のある茅ケ崎(神奈川県)から、毎週5時間かけて小高区に通い、非常勤医師として南相馬市立総合病院附属小高診療所のほか2ヶ所の病院を掛け持ちで診療にあたり、東京、神奈川でも休日返上で働くハイパワーの持ち主です。すべてに感謝し、「ありがとう」の言葉に精一杯の思いを込めて活動する姿に、医師としての心意気を感じます。
――もともとは外科医とのことですが、南相馬とのかかわりは震災後の医療ボランティアですか?
中尾:実は、震災前の2月に、南相馬市立小高病院が全国向けに緊急の医師募集をしていたんです。医師不足で病院が回らなくなりそうだ…と。南相馬は慈恵医大の先輩も多く、小高病院はいいところだと聞いていたし、正直、条件も良かったので(笑)、それに私が応募したのがきっかけです。結局、結果が来ないうちに震災、原発事故が起きてしまい音信不通。どうしようか迷っていたとき、南相馬市立総合病院で全国に医療ボランティアを募集したので、すぐに応募してこちらに来ました。
――先生ご自身は、当時、病院勤務はされていなかったのですか?
中尾:東京の病院や診療所で非常勤医師を。それは今も続けています。千葉の聖隷佐倉病院はもう15年目ですし、その前は慈恵医大の教員をしながら、いろいろな病院に出向もしていました。私自身の本職は、労働衛生コンサルタント事務所の代表です… と言っても社員は私一人ですが(笑)、産業医をしながら、産業医の先生をご指導申し上げる… それが私のメインの仕事です。
―― 当時の南相馬は大変な状況だったと思いますが、その中で病院のようすはいかがでしたか?
中尾:私は、5月30日から月に数回ですが、南相馬市立総合病院にボランティアで入っていました。その頃は、津波で流された船が何隻も放置されていたり、自衛隊の人が大勢で行方不明者の捜索をしていた頃で、まさに非常事態の中での対応でした。常勤医4人。病院は24時間体制で救急車も来ます。我々が支援に入っても、60時間とか120時間勤務の連続でした。
 とにかく、やるしかない。医師も看護師も寝ないでがんばっていました。私の勤務日数もどんどん増えていきましたが、負けるわけにはいきませんでした。こんなことで逃げたら〝男が廃る〟と思いながらやっていました。


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