女たちの原発事故7年

らら・カフェ 2018春号(第42号)/ 2018年3月

共同通信社科学部長・原子力報道室長
高橋 宏一郎

東京電力福島第1原発事故をめぐっては、これまでなんだか男性ばかりを取材して報じてきたような気がしています。廃炉や除染、作業の現場は男社会ですから、どうしても報道は男性に焦点を当てがち。でも当たり前ですが、福島の地では女性たちも懸命に踏ん張ってこの7年間を生きてきました。ここに3人の女性を紹介したいと思います。題して――「女たちの原発事故7年」


子どもからお年寄りまで
傷んだ心を少しでも癒して…

 南相馬市のJR原ノ町駅前で学習塾を営んできた番場さち子さん(57歳)は、子どもからお年寄りまで、原発事故で傷んだ人々の心を癒やそうと東奔西走した7年でした。
 震災と原発事故が起きた時、塾には114人の児童・生徒が在籍していました。多くの子どもたちは家族と各地へ避難し、塾は閉鎖状態となりました。津波の犠牲になった教え子もいました。高齢の両親といったん伊達市に身を寄せた番場さんは、2週間ほど後に南相馬へ単身戻りました。親の仕事や家族の決断で南相馬に残っている子どもたちがいました。学校はずっと休校。不安ばかりの中で、誰かが子どもたちに寄り添う必要があると感じました。塾の教室を集いの場として開放し、無料の学習会を開きました。

 ただ塾の経営は成り立ちません。中学校のそばで5部屋ある建物1棟を借りていたが解約。パソコンのリース会社からは「放射能を浴びたパソコンを返されても困る」と言われました。「教育者のくせに子どもを強制避難させないのは、けしからん」と塾には非難の電話が掛かってきます。差別や偏見とのたたかいが始まりました。
 正しく放射線や放射能のことを知ろうと、医療支援で南相馬入りしていた東大の坪倉正治医師と住民向けに学びの会を開きました。これは現在まで100回ほど続いています。津波の遺族や被災者の苦悩を聞く傾聴ボランティアの活動は、その後自らが主宰する「ベテランママの会」につながりました。高齢者を元気づけようと編み物サークルや書道教室、マッサージやエステの会を開いています。

 

 

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