花を育て、花に教えられ、
親子三代で築いた桃源郷

らら・カフェ 2021夏号(第55号)/ 2021年6月

福島を代表する一大観光地であり日本有数の花の名所として名を知られる花見山公園。その歴史は、人に喜んでほしいと願いながら、厭くことなく数多くの花々を実直に育て続けた阿部家の親子三代(伊勢次郎さん・一郎さん・一夫さん)によって作られてきました。移り変わりの激しい世の中にあって、花見山は毎年変わらず訪れる多くの人の心を癒やしています。その歴史や現状についてお話を聞きました。

人をもてなすのが好きだった祖父・伊勢次郎さん。
 作業場に掲げられた『無心』の書は、祖父の手によるものです。もともと書を趣味としていたんですが、病で倒れてから手足の一部が不自由となり、字を大きく書くようになりました。そんなこともあってとても大きく力強い書で、父も同じように作業のあいまにこの書を見ていました。
 祖父は人をもてなしたいという気持ちが強い人で、来園者を受け入れたのが公園としての始まりです。母屋の一部を休憩スペースにしたり、池を作って庭を整備したり、食堂を設置してお花見のスペースを作ったりしました。その頃は毎日がお花見でしたね。
 ただ、当時は道路も水道も未整備、お店を運営するのはとても大変な状況でした。そんな中でも人を招き入れた祖父は、とても先進的な考えを持っていたのだと思います。


父・一郎さんと写真家・秋山庄太郎さん
 写真家の秋山庄太郎さんには著書にサインをいただいたことを覚えています。父とは同学年だったこともあり、親しくしていて、父のことを「いっちゃん」と呼んでいました。二年に一度撮影会のために多くのお弟子さんと一緒にいらしていましたね。
 秋山さんのおかげで花見山が多くの人に知られるようになったのですが、秋山さんご自身は父のことを気遣い「人が来すぎて却って迷惑をかけてしまったのではないか」と仰っていたことも覚えています。
 父はとても人を活かすのが上手な人でした。例えば石を積み上げるならば、どういう順番でどういう角度で積み上げれば最もきれいに見えるか、それを見る目がとても長けていました。人と接する時にも、その優れた観察眼で良く人を見ていたので、往時は多くの研修生を受け入れて技術指導や育成を行っていました。
 父は切り替えの早い人で植え替えのため木を切る決断がとても早かった。伐採した後に私に報告するくらいでしたから。思えば明日の命が分からない戦争経験者ならではの判断の早さだったのかとも思います。




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